現役官僚おおくぼやまとの日記

※このブログは私が所属する組織の見解を示すものではなく、あくまで個人の見解に基づくものであります。また正確性を一義的な目的とはしていないため、事実であるかどうかの裏づけを得ていない情報に基づく発信や不確かな内容の発信が含まれる可能性があります。

それでも霞が関でもう少し消耗する ~官僚を続ける理由~

官僚の不祥事で国が揺れている

中の人としてはとても申し訳ないと思うし、情けない気持ちでいっぱいである

一国民として見れば言語道断のような事案ばかりだし、

行政を信頼できなくなるのはある種当然の帰結だと思う。

 

不祥事の追及は、それ自体は必要なことだが、

他に必要な政策に関する議論の時間が削られ、それは結局国全体に跳ね返る。

 

不祥事の追及はそろそろやめたらどうか、と言いたいのではなく(個人的には、いまだにすっきりしない事案がいくつかあるし、何が起こったのかはしっかりと究明してほしい)、

 

こういう事案が発生してしまうと、解決のために国の様々なリソースを割かなければならないのであって、そういう意味においても一連の不祥事には胸が痛む。

 

国会の審議にとどまらず、問題が発生した各省庁担当部局の職員は対応に追われていて通常業務にしわ寄せが生じている。

影響は中央にとどまらない。

財務省の不祥事問題においては、前理財局長が国税庁に昇格したことから、全国の税務署での税務行政に影響が出たということだ。尊い命も失われてしまった。

 

そんな中、

ここ数か月で、官僚のモチベーションが低下しているぞ、という内容の報道(雑誌・テレビ番組)をよく見かけるようになった。

 

理由はたくさん挙げられているが

 

 

国会作業を中心とする非効率な業務【働き方の問題】

(国会以外の)政治家対応に多大な時間を取られる【政と官の関係】

給与面をはじめとする不満【待遇】

 

 

というようなものを多く見かけるように思う。

また、周囲の同僚や後輩と話す限りでは

 

社会の変化に追いつけておらず、民間によるスピード感を持ったアプローチのほうが社会に貢献できるという実感【官庁の地位低下】

 

という構造的な問題も、職員の行動に影響を与えているように思われる。

 

 

実際私の周りでも、

霞が関を飛び出していく、あるいは飛び出そうとする仲間が少なくない

私もいつそうなるかわからない。

 

この状況で一つ思うことがある

転職は、人生の一大転機であり、大きな決断力が必要だ

ただ、同時に、霞が関に残る者は

「働き続ける」

という決断を常に行っていることを忘れてはならない。

 

この決断を、知らず知らずのうちに、盲目的に、無自覚に行っている人がいるとしたらとても危険だと思う。

惰性で働き続ける結果、無意識のうちに、その組織の一員であることが当たり前になり、組織防衛ありき、省益ありきの発想になるという要素は、否定しきれないのではないだろうか。

 

さきほど挙げた、「辞めたくなる理由」に対して、自分なりの確固たる答えを常に持っていないといけない。

 

 

行政・官僚に関する報道が増え、同時に官庁訪問が近づくとともに、

「なぜ官僚という仕事を選んだのですか」

「なぜ続けているのですか」

という質問を、本当に多く頂くようになった。

(多分、20問ぐらい溜まっている。ごめんなさい。この記事を以って一気に回答とさせてください)

 

とても自然なご質問だと思う。

今、世に出ている情報だけをもとにすれば、およそ霞が関で働くなんていうのは正気ではないし、

 

「なんか悪いことして甘い汁吸ってるんじゃないか」

「結局、最後まで我慢して天下り狙いなんでしょ」

 

という疑問を抱くのにもつながっているのかもしれない。

 

ただ、霞が関は依然として面白い職場の一つだし、そう考えて働き続ける人が多いのは事実だ。辞める人よりは残る人の方が多い、今のところは。

霞が関の魅力なんていう記事は誰も読みたがらないこともありあまり世に出ていかないように見受けられるので、

自分なりに、

私はなぜ辞めずにこの仕事を続けているのかというのを、

自分の考えの整理も兼ねて文章にしてみるのは一定の意味があるという考えに至ったわけである。

不祥事関係についてどう解決していくか、ということはとても大事な話だが、今回は完全に横に置いて、霞が関で働く理由について記載してある。

 

なお、学生向けではあるが、各省の採用のためのパンフレットには、霞が関で働くことの意義がたくさん語られている。こんな若造の取り留めのない文章よりも読み応えがあるし、実体験に基づく記載も多い。もし官僚の生態に興味がある方がいらっしゃれば、ご期待に沿う読み物だと思う。

 

 

1. 今のところ、日本最大の政策立案機能を有していること

 

 こんなことを若造が言ってしまっていいのかわからないのだが、

 現時点では、日本で最大の政策立案機能を有しているのは霞が関の官庁街だと思う。

 これは情報量においても人的リソースにおいてもそうだ。

 

 (立法府ではなく)行政府が政策を立案しているのはおかしいという議論が常にある。これは、個人的には一考の余地があると思っている。

 

 しかし、今日のエントリは、私という個人がどのような職業選択をするかがポイントだ。残念ながら、統治機構の改革には時間がかかりそうだ。

 

 私は、政策を考えるということに割と強めの興味関心がある(もちろん、それだけではないが)。そういう人間としては、やはりここは今のところ魅力的な職場なのだ。

 

 ただし、あくまで政策立案という機能に興味があるのであって、なんとか省とかいう組織に強くこだわるものでもない。

 別に政党で働いてもいいし、発言権のあるシンクタンクができればそこでもいい。しかし、現状では、ここ霞が関が、私の能力を最も発揮できる場所である気がしている。

 

2. 政策立案という仕事の魅力

 

 1.は組織の存在理由にはなっているが、私自身が残る理由にはまるでなっていない。

 そもそも政策の立案とは何をしているのだろうか。

 それをお伝えしないと、私がこの仕事をし続ける理由はわかって頂けないだろう。

 

 政策を形作るツールとしては

 まずは法令があり、予算(補助金とか)がある。

 あるいは租税特別措置なんていうものがあったりもするし、

 それらの足がかりとして、直接世の中に対して実行力があるわけではないが、

 

 政府の各種文書(成長戦略とかだ)や、有識者の会議などの箱がある。

 

 これらを有効に組み合わせて、政策目的を達成するためにパッケージを作るのが政策立案だ。

 

 一つの政策を実現するためには数え切れないほど多くのアクターが絡み合う。

 

 政策に利害を有する業界団体との意見交換はもちろん、必要に応じて現場を視察し、

 政策ニーズを汲み取る

 こういう政策が欲しいという人の声が大きく聞こえがちだが、

 客観的なデータの精査も重要だ(これに不備があった某案件はやはり宜しくない)

 途上国援助の第一歩は政府統計の整備だという人が少なくない

 サイレントマジョリティーの声は統計から聞こえてくることもある

 

 どう伝えていくか、という側面では、メディアとの協同も重要だ。

 多くの人が、役所が公表する一次情報ではなくメディアを通じて政策内容を知るのが現実である以上、

 メディアが政策形成過程において果たす役割は大きい。

 内容が誤ってとらえられている場合は、丁寧に説明して、国民の皆様に正しい情報を伝えてもらう必要がある。

 

 海外当局との連携も欠かせないが、これは別の項に話を譲る。

 

 最後はもちろん、国会だ。

 民主的正当性が無い私たちには、政策の最終判断を行う権限が無い。

 国会からのご指摘も踏まえつつ、民意に沿った政策を練り上げていく。

 

 

 まぁこんな感じで途方もない人々が絡まりあって政策はできていく。

 この一体感たるや、なかなか心地よいものがあるのだ。

 

 喧嘩をすることも多い

 ただ、やるところまで議論を突き詰めると、不思議と連帯感が生まれる。

 結局、国のためを思って仕事をしている人がこのコミュニティ(上述したアクターすべてを含むのでこんな言葉を使った)には多いので、最後まで喧嘩をしていても仕方ないのだ。

 (しかしたまに、いや、しばしば、自分たちのためだけに喧嘩すればいいや、という人も残念ながら存在する)

 そういう人たちと世の中を前に進めていくのはやりがいがあるし、

 ここまで多くの人たちと触れ合っていると「世の中が狭くなっていく感じ」がある。

 社会の動きが奥のほうまでわかる感じ、と言ってもいいかもしれない。

 

 さらに、これはビジネスでもそうだが、歴史の一ページに刻まれる大玉がたまにやってくる。

 大げさに言えば、

 例えば法令というのはやたら古いものがあって、

 その改正の歴史は、その分野の歴史そのものだ。

 現下の社会情勢を汲み取り、新しい一ページを紡いでいく。

 

 面白いのは、作った時にはしょうもない一ページであっても、

 数十年後光を放つことがある。

 

 悩ましいのは、

 政策というのは、究極的には、評価は後世に任せるほかないということがある。

 すぐに結果が出るものばかりではない。

 

 すぐにはわからないからこそ説明責任をしっかりと果たし、国民全体として時にはリスクを取る決断をする必要がある。

 

 そんなダイナミズムが、ここにはある。

 

 

3. 人気取りを考えなくていいこと

 

 1のようなことを言う人にとって提案できる一つのオプションが

 「政治家になったら?」

 ということである。

 確かに、政治家になればいよいよ自分の言葉で語ることができ、自分が望む社会に向けて必要な施策を打っていけるだろう。

 (実は政治家もピラミッド組織で意外と大変そうなんです、という話は本稿では割愛)

 

 政治家はやったことがないので、どうこう言うのは難しいのだが、

 政治との対比という意味で行政官で良かったなぁと思えるのは、

 「どう考えても国民からは人気が出なさそうな政策でも何の躊躇もなく提案できる」

 という点だ。

 

 これは想像にしか過ぎないが

 私のような、地盤も看板もカバンも無い無名の若造が選挙に出て、何かの風が吹いて通ってしまったとしても、次の選挙が気になって気になって仕方ない。

 そのような状況下で、「耳の痛い政策」の旗を振っていける自信はない。

 あるいは、絶対に必要だけど地味な政策よりは、必要かはよくわからないが目立つ政策に飛びついてしまうかもしれない。

 

 こういう書き方をすると暗に政治家を批判しているような文章になるのだが、

 政治家の中には、そんなことを気にせず、ズバッとモノ申している人たちも確実にいる。ただ、私には無理だなぁという話をしている。

 

 閑話休題

 有権者の利害を背負った政治家と、

 選挙圧力に直面していない官僚とが、

 お互いの見解をぶつけ合うのは意味があるものだと感じている。

 

 行政は法令の執行部隊にすぎない(のに今は権力を持ちすぎだ)、という見解については、

 

①執行部隊であることは間違いない

②しかし、執行部隊だからこそわかること(現場を持っている等)もある

③また、(日本ではあまり起こらないが)政権交代の可能性がある政治と違い、連続性がある

 ともすればポピュリズムに陥りがちな政治を補完する機能を有する

④民主的正当性が無い官僚が物事を決めるのが適切ではないのは論を待たないが、

 行政府のリソースを有効利用することは間違いなく国の役に立つ

 (③があるので、情報をすべて公開してもらえばあとは政治で決めます、ということにしてしまうと、不都合が生じる可能性がある。生じないかもしれない。それは民主主義のクオリティ次第だ)

 

ということだと考えている。

 

 なお、このように書いていると、あるいは各種報道を見ていると、

 どうも政治家と官僚というのはめちゃくちゃ仲悪そうに思ってしまう人がいる気がするが、

 建設的な議論も割と多い。

 

 あと、こういうことを暴露してしまっていいのかわからないが、

 公務員叩きは割と人気が出るのでかなりの人が参戦しているが、公務員を叩いている人のところにレクに行っても別に叩かれるわけではない。

 (もちろん、パワハラちっくな人もいる。政治家というのは本当にいろいろな人がいるのだ。どのような人がどれぐらいいるのかという割合についても聞かれるが、さすがに全議員のことはわからないので、これもわからない。委員会ごとに性格も結構違ったりする。なお、そもそも表面的な対応以前に、必要なご指摘・ご指導は真摯に受け止めなければならないことは言うまでもない)

 

4. 仕事を任されまくること(成長機会があること)

 

 私たちの仕事の実態がうまく届いていない部分なのだが、

 政策立案過程においては、ボトムアップの要素がかなり強い。

 

 海外当局の人間とも意見交換をしたり、あるいは実際に職場に遊びに行ったりするのだが、

 欧米では基本的にはボスから仕事が下りてきてそれをこなす。ボスが絶対だ。

 逆に言えばボスになればやりたいことができるので、プロモーション(昇進)に対するモチベーションがかなり高い。

 

 一方我が国の行政組織においては、もちろんトップダウンの政策も多々あるが、

 これは本当にぜひ一度体験していただきたいのだが、

 驚くほど若手職員に任されている。

 

 想像してみてほしい

 「自分が動かなければこの年のこの分野の政策は何も動かないぞ」

 という状況に置かれた時のプレッシャーたるや、すごいものだ。

 

 近年の議論はもちろん、過去の歴史(明治時代ぐらいまでさかのぼることもある)を調べて制度を深く理解し、

 電話でいきなりアポイントをとって有識者を回ってヒアリングをし(何のコネクションも無い時でもみなさん丁寧に対応してくださる。多分めんどくさいと思われているんだろうなぁと申し訳なく思い電話をかける手が止まりそうになるが、仕事だと思ってやる。いつも本当にありがとうございます)

 業界団体や他省庁、時には海外当局とも意見交換をしながら、案を練り上げる。

 独りよがりになってはならない。

 私たちはあくまで案を作る存在であって、決めるのは国会であり有権者だ。

 特定の利害グループのためではなく、国全体の利益に資する政策となるよう多角的検討を行い、国民の代表たる国会でもご理解頂けるよう調整し、時には直接説明し、成案にこぎつける。

 

 

 上司や部下、同僚の助けを借りながら、これらのビッグピクチャーを描いていく。

 

 この経験は、かなり鍛えられる。

 面白い。

 

 

5. 世界に広がる職場であること

 

 およそ企業であれば須らく、同業他社、ライバル企業というのが存在すると思う。

 では私たち行政官のライバル企業はどこなのだろうか。

 予算編成や税改要望であれば財務省

 あるいは官邸主導といわれる今日では、官邸か?

 

 これは絶対に違う

 

 もちろん、企業ではない以上、ライバル企業なんてものは存在しえないのだが、

 あえて言えば、海外当局だ。

 ホワイトハウスであり、中国共産党だ。

 (多くの人の馴染みがある固有名詞を例示しただけで、米中をことさら強調するつもりはない)

 

 

 ここ十数年で、イノベーションのスピードが格段に上がったのは間違いない。

 もちろん、イノベーションは民間主導・ビジネス先行で進むのが大前提だし、

 これは完全に個人の見解だが、ビジネスを活性化するために公金を突っ込むのは多少の違和感がある。

 

 ただし、社会の根幹となるルールを整備している主体として、やれることはやっていかないといけない。

 現に、世界中で勃興する新しいサービスが、日本の古臭い制度のせいで使えない、という事例が散見されるようになってきた。あるいは、例えば仮想通貨業界では顕著にみられるが、各国の法制度が、新規ビジネスの興隆具合を左右することも今後増えるだろう。

 

 そういう意味で、私たち霞が関のライバルは、海外当局だ。

 

 「ライバル企業」という言葉を用いたためビジネスシーンから話を始めたが、

 よりわかりやすいのは外交だろう。

 外交はまさに国と国との利害のぶつかり合いである。

 外交というと外務省でしょ、ということになりがちだが、

 もちろん外交の主役を外務省が担っていることは論を待たないが、

 あらゆる分野でグローバル化が進んでいる現代、

 例えばTPPの議論を見ていただければ、およそすべての業界において外交の要素が不可欠であることはおわかりいただけると思う。

 

 何も海外当局と常に喧嘩をしているわけではない。

 犯罪捜査や課税逃れ対策、難民問題に地球環境等、全世界が協調して取り組むべき課題は山積している。

 世界が抱える社会問題について、同じ地球市民として海外当局のカウンターパートと頭をひねる。

 

 世間のイメージがどうなのかわからないが、

 霞が関は世界と直結している。

 

 なぜ世界に広がる仕事が面白いのか、ということについては、

 単純に、面白いじゃん、ということだ。

 

 世界はでかい。

 仕事のスケールも必然的に大きくなる。

 一つのプロジェクトが終わった時の喜びはひとしおだし、それを通じて知り合う人々も多い。

 片田舎から出てきた若造が、海外当局と国の利益を背負ってわぁわぁ議論するのだ。

 燃えるではないか。

 

6. 言うほど劣悪でもない

 

 最近は行政に関する報道が過熱していることもあり、

 激務長時間労働といった過酷な労働環境について強調されすぎている気もする。

 これは弊質問箱(という言葉があるのだろうか)にも質問が寄せられるたびに答えに窮するのだが、

 勤務環境というのは本当に、時と場合と部署によるとしか言えない。

 やばい時は本当にやばいのだ。

 なんせ95時と言ったって、霞が関では朝の9時から朝の5時だったりするのだから。

 

 一方で、無風の時は本当に無風だ。

 定時に上がって職場外の友人と飲みに行く。

 サントリーホールや帝国劇場で観劇に興じるのもよいし、霞が関駅から小田急に乗れば金夜から二泊三日で箱根旅行だ。

 

 要は時と場合によるのだ。

 

 なお、断っておきたいのは、

 「劣悪報道が出まくっているためヤバいというイメージがものすごく先行しているが、

 その先行具合と比べると実態は『言うほど劣悪でもない』こともある」

 ということであって、

 

 絶対水準として、あまりよろしくない職場環境ではあると思う。

 

 実際、体調を崩す人はいる。

 これは上司等の運もあるし、組織の問題でもあるし、

 経験してきた部署によって受け止め方も異なるし、

 霞が関を職業の一つとして考えている人たちに、責任を持ってお答えするのは難しい。

 

 また、体力的な問題とは別の話として、

 霞が関の建物に閉じこもっていても良い政策は生まれない。

 異業種の人々と公私で関係を持つのはとても大事なことだ。あるいは自己研鑽にも常に励まなければならない。そのためにも、さっさと仕事を切り上げることもまた大切だ。効率的な働き方は常に追求しないといけない。

 

 積極的に残る理由として「意外とマシだ」なんて話を書くのはおかしいのだが、

 質問箱に寄せられる質問の半分ぐらいは

 「こんなに劣悪な環境なのになんで」

 という枕詞がついている気がしたので、歯切れが悪い記載ではあるが、ついでに書いておいた

 

 

7. 片足を突っ込んでしまっていること

 

 これは、これまでの理由と比べると少し毛色が異なるし、

 もし官庁訪問を控えた人が読んでいるのなら参考にならないと思う。

 

 霞が関の、足元の状況は、悪い。

 将来の見通しも、まぁ良いわけではない。

 

 だが、この組織の幹部候補生(総合職)として仕事をしている以上、会社の業績が悪くなってきたのでちょっと抜けますね、というのはなんだか気持ち悪いと思う自分がいる。これはもう完全に個人の主観であるし、後述するように、「今はそう思う」ということであって、将来的に私もどうなるかわからない。今は自分はそういう感触があるということに過ぎない。

 

 この理屈に捕捉が必要なのは、

 例えばアルバイトが辞めますと言ったときに、急に辞められても困る!バイトにはバイトの責任が―、とかいう話とはまったく構造が違うということだ。

 そもそも、職場で発生する問題、特にメンタル系の問題はむしろ、正義感が強いまじめな社員が仕事を抱えてしまい結果として業務に支障をきたす帰結を招くというパターンが少なくない。これは役所でも往々にして起こっている。私も似たような状況になったことがあるので、これは今後もずっと気を付けなくてはいけないと思っている。

 

 「責任を背負いすぎて辛くなる。逃げられなくなる」

 という問題と

 「幹部候補生として一定の責任がある気がするので、逃げたくない」

 という意思は、微妙に違うのだ。

 

 これは直接お話ししたほうがニュアンスがより伝わると思うのだが、

 「逃げたくない」

 というほど強いものではなく、

 「もうちょい自分レベルでもやれることはあると思うんだよなぁ~」

 ぐらいのものだ。

 

 特に、組織に対して不満がある場合は、

 「自分でやれることをやれるだけやって、それでもダメだったらそのとき蹴る」

 という行動をとりたいというのが私の理想だ。

 

 ハッキリ言って、むしろ足元の状況が悪いからこそ、「もう少し頑張ろうかな」という意思は強くなったような気がする。

 アホと言われればアホだし、まだ霞が関で消耗するの?と言われれば、消耗します・・・ってことになる。

 ありがたいことに、私はまだ消耗しきってはいないので、元気が残っているというだけのことかもしれない笑

 

 

 キャリア職員というのは、周りには申し訳ないスピードで昇進している。

 重要なポストを、それこそ1年目から任せていただいている。

 日々の経験そのものが、周りの人たちから与えられているものだし、その時点で責任は発生している。

 若い時から部下を持たせてもらっている。

 局をまたいで異動し続けることから、省内のネットワークも太い。

 

 このリソースを存分に生かす責任がある。

 

 政策立案については職務に励むに尽きるのだが、

 業務改善や広報改革などは、自発的に自分のチームで改革を進めてみたり、

 あるいは有志で勉強会を作って議論してみるなど、

 一個人としてやれることはたくさんあるという感触がある。

 

 まだまだここでやりたいこと、やるべきことはある。

 

 「やりたいこと」の中にはこのブログとかSNSも含まれる。

 別に辞めてからも続ければいいのだが、やはり中にいるからわかることもあるし、

 それをこういった形で発信することに一定の意味を感じ始めている。

 (とか言っている割には更新頻度が低いのだが、職務専念義務があるのでこれは致し方ない)

 

 

 ただ、辞める人と話していると

 「いろいろやったけど、もう無理だ」

 という人もいる。

 それは本当にそうなんだろうなと思うし、尊重されるべき意見だ。

 同時に、こう言って辞めていく人が一定数いることを、組織全体として、あるいは行政府全体として重く受け止めるべきだと思う。

 彼らも一度は、国のためにと思って、役所の門を叩いたのだ。

 

  なお、補足しておくと、責任という言葉が一つのキーワードになっているが、これは一つ間違うと、傲慢さにも繋がりかねない。

    自分たちがやらねばという責任感が視野を狭めるのだ。常に謙虚さを忘れず、与えられた持ち場を守る。これは日々意識していきたい点だ。

 

 

 

8. それでも霞が関でもう少し消耗する

 

 蛇足だが、

 多忙な現代社会においてこんなブログをわざわざ読むようなネット感度の高い人はすぐピンと来たと思うが、

 タイトル名はイケダハヤトさんのブログ・著書をオマージュしてみた。

 

 イケハヤさんは個人的に、かなり好きだ。

 ブログやtwitterは非常に勉強になるし、本も買って読んだ。

 あのライフスタイルも憧れるものはあるし、ブログのPVもかなり増えてきたのでそっちに振り切った人生もいいなぁとか思う笑

 

 脱線してしまったけれども、

 なぜこのタイトルを思いついたかというと、

 やはり霞が関勤務を通じて「消耗している感」は否めない。

 

 転職すれば給料は上がるので機会費用の観点からは毎月大金を払い続けているような状況だし、

 サービス残業は減らない。

 

 

 そういった「消耗感」をちゃんと自分の中で消化しておかないと、

 例えば「激務薄給で頑張ってるんだから、ちょっとぐらいいいよね」みたいな発想で悪さをしてしまうかもしれないし、

 「これが国のためなんだ!」と視野狭窄に陥る確率も高まると思う。

 

 なので、国のために職務に努める、というのは大前提なのだが、

 なぜその職業を選択するのか、という観点では、「自分のため」という利己的な動機が必要だと思う。

 

 あくまで自己の利益のためにも

 「霞が関には自分の人生を多少消耗させてもやる価値のある仕事がまだある」

 ということになっていないといけない。

 (霞が関の仕事が全部そうだとは言えないのが辛いのだが)

 

 結局、人生は一度きりなのだし、自分のために、という強い気待ちがないとおかしなことになると思う。

 

 

 

 無意味だったり何の成長機会も無い仕事のために消耗するのは馬鹿らしいが、

 価値がある仕事であれば、それは消耗する理由になる。

 

 消耗という言葉がこの文脈で適切かはわからないが、

 自分の人生においても、今の経験が血となり肉となっている感覚が強い。

 

 

 国民全体の奉仕者であるという大前提を忘れることなく、

 ここにある仕事が、自分の人生をすり減らす価値は無いな、世の中のためになってないなと判断したら、

 大変申し訳ないけれども、それは自分や家族の人生を守るために、飛び出すということになる。

 

 ことあるごとに、とくに就職活動中の人に言っているのだが、世の中に貢献できる仕事は霞が関の外にも星の数ほどある。

 

 

 

 とりあえずそんなことを考えて、私は今日も辞めずに出勤したし、

 明日も一若手官僚として国のために働こうと思う

 

 

 

※本記事は予約投稿機能を用いたため、筆者が残業中に公開されている可能性があります。

 

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質問箱もあります。匿名で質問できます。そのせいで誹謗中傷もたくさんいただきます笑 負けないぞー。Twitterでお答えしています。

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<おことわり>

 このブログは私が所属する組織の見解を示すものではなく、あくまで個人の見解に基づくものであります。

 また正確性を一義的な目的とはしていないため、事実であるかどうかの裏づけを得ていない情報に基づく発信や不確かな内容の発信が含まれる可能性があります。

(参考:総務省 『国家公務員のソーシャルメディアの私的利用に当たって』 H25.6.28)

http://www.soumu.go.jp/main_content/000235662.pdf